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唐津焼と中里家

日本各地で釉薬が施された陶器が焼かれるようになったのは、400年程度前の文禄・慶長の役の後。しかし唐津の岸岳地方ではそれ以前から、朝鮮半島や南中国より陶技が伝えられ、釉薬のかかった焼き物が作られた。文禄の役当時、唐津地方の新領主となった美濃出身の寺澤氏は唐津焼を保護奨励した。陶工達は佐賀県伊万里市南波多町府招の「椎の峯」に集まり、唐津焼の中心地となった。中里家初代の又七は他の2名と共に、文禄年間伊万里市大川町に田代窯を開窯した。その後、同市同町川原に移り、岸岳直系の古唐津を作った。元和初期、椎の峯窯へ移り、寺澤氏の御用窯を勤めた。1699年、「椎の峯事件」が起こり、当時の御用陶工だった4代中里太郎右衛門と息子喜平次、4代大島弥次兵衛の3名は唐津へ招かれ、西の浜に坊主町御茶盌窯を創めた。その後1734年唐人町へ御用窯を移し、幕末まで代々将軍家、高家への献上品のみを焼いた。これを「献上唐津」と呼ぶ。

現在も陶房の一角にある窯が、当時作られた唐人町御茶盌窯。1924年まで使用されていた。その後大島家は陶業より離れ、古唐津の伝統を継承しているのは中里家のみとなった。唐津焼は、李朝や明朝の陶技が伝承されながら、肥前の風土に培われて唐津独自のものとなり、素朴な絵模様、簡略な形、渋い色調に特徴があり、あたたかみを感じることができる。

1895-1985

12代 中里太郎右衛門(中里 無庵)​

1927年11代の次男、重雄が12代太郎右衛門を襲名。無庵は、途絶えていた古唐津の陶技を研究。その技術が認められ、唐津焼全般の陶技保存作家として、1976年文部省より重要無形文化財(人間国宝)に認められた。1985年正五位勲四等旭日小綬章を授与された。

1923-2009

13代 中里太郎右衛門(中里 逢庵)​

1969年12代の長男、忠夫が13代太郎右衛門を襲名。2007年、逢庵は日本芸術院会員に就任し、同年、美術文化功労により、旭日中綬章が授与された。

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